“レフティモンスター” 現役引退
元サッカー日本五輪代表であり、元日本代表だったヴァンフォーレ甲府の小倉隆文選手が、2月10日引退を発表しました。
小倉隆史、その類まれなストライカーとしての才能を持ちながら、怪我という不可抗力によってサッカー人生の歯車を大きく、大きく狂わされてしまった選手ですね。
地元が愛知の僕は、高校サッカーは愛知、三重、岐阜あたりの代表校の結果は毎年気になるものです。
92年の全国高校サッカー選手権大会で、三重県代表の四日市中央工業高校が優勝した時はやはり、すごくうれしかったですね。
そしてそこで一際輝いていたのが、その決勝でも同点ゴールを決めたこの小倉でした。
その小倉が僕の地元のクラブであり、応援していた名古屋グランパスエイトに入団したときは本当にうれしかったものです。
サッカー留学ということで、93-94シーズンにオランダの2部のクラブだったエクセルシオール・ロッテルダム へレンタル移籍すると、チーム得点王の活躍を見せます。
その活躍からオランダ1部のクラブからもオファーがあったそうですが、当時の日本サッカー五輪代表の西野監督の熱意から、Jリーグに戻って五輪に参加するする決意をしました。
そのオランダでの活躍が認められ、20歳でフル代表にも選ばれました。
僕が小倉のゴールの中で最も印象的であり、衝撃的だったのが、94年のキリン杯、日本代表として出場したフランス戦でのゴール。
カントナらを擁したフランスに内容的には完敗でしたが、その中で一矢報いたのが小倉の一撃。
PA手前で振り向きざまに放った左足のシュートは、決して弾丸というわけではなかったのですがゴールの隅をゴロで捕らえた見事なものでした。
このゴールで日本代表に大きな武器が誕生したかに思われました。
が、最悪の悲劇は96年に起こります。
彼にとって、オランダに残るよりも大切だったアトランタ五輪。
その出場が掛かったアジア最終予選の直前、その開催地であるマレーシアでの合宿での練習中に、彼は大怪我を負います。
右足後十字靭帯の断裂。
その瞬間、日本は一人の天才ストライカーを失うこととなりました。
その後、常に怪我の不安と戦いながら様々なクラブでプレーしますが、以前のような輝きはありません。
才能、精神ともに類まれなモノを持ちながら、唯一彼になかったのは“運”。
「たら」「れば」を言っていても仕方ないと思っていながらも、あの怪我がなかった小倉を見てみたかった、と心から思える選手です。
本当に、本当に残念でなりません。
ただそれでも今日まで現役であり続けた彼は本当に尊敬に値すると思います。
自分の体が思うように動かないジレンマを誰よりも感じていたのは本人に違いないんですから。
様々な苦悩があったのでしょうけど、それと向き合いながら今日までサッカーをし続けてきた小倉選手。
僕はあなたのあの華麗なプレーで感動をもらい、ケガと戦う姿に勇気をもらいました。
僕みたいなファンも大勢いると思います。
最後に一言言わせてください。
「本当にお疲れ様でした。」